☆ 特別寄稿 ☆
信州大学のシンボルの花・駒草にまつわる話
学生部長 千葉茂俊
信州大学の紋章はコマクサである。コマクサはケシ科ケマンソウ属の多年草で、日本では 代表的な高山植物として有名である。盛夏に淡紅色の花を数個下向きに付け、次に多数の 黒色の種子を生ずる。希に白色の花もある。草丈は10センチ程で葉は多数の細い裂片から成る 羽状複葉で、やや白っぽい緑色で何とも可憐な草花である。このコマクサは本州中部以北の 森林限界を越えた高山の、他の草がほとんど生えない砂礫地に生える。大雪山、秋田駒、岩手山、 蔵王、北アルプス、乗鞍岳、八ヶ岳等の群落がよく知られていて、特に大雪山のコマクサの花の 赤い色は鮮やかであるといわれている。南限は甲斐駒ヶ岳であり、世界的には千島列島、サハリン、 カムチャッカ等に分布している。
コマクサの学名はジゼントラ・ペレグリナ・マキノ(Papaveraceae)である。マキノとは 植物学の大御所の故牧野富太郎博士のことである。コマクサの英語名は辞書に bleeding heart とあるが、これはケマンソウの総称であり、 正確なコマクサの英訳になっているわけではない。それにしても「血の心臓」とは何とも味気ない名前ではないか。 コマクサは、米国やヨーロッパにない日本独特の高山植物と云ってもよいのであるから、 国際語としても独自の英名をつけたいものである。たとえば Pony floret とか Pinky heart flora などは いかがなものであろうか。米国のロッキー山脈にはコマクサの仲間が2種自生している。 その一つに Steershead(学名ジセントラ・ユニフロラ)がある。 これは日本のコマクサに似ているが大柄であり可憐とはいいがたく、強力な毒草でもある。
ところで、ケシ科といえば誰もが思いあたるのはポピー(芥子もしくは罌粟) (学名パパベル・ソムニフェム)であろう。これはモルヒネを含むアヘン(阿片)アルカロイドの 強力な鎮痛作用をもつ麻薬を連想させるものである。学名のパパベルはパパベリンである。塩パパと 云えば臨床では鎮痙剤の代表である。モルヒネの語源はギリシヤ語の夢や眠りの神モルヒウスから きているし、アヘンの語源も辿っていくとギリシヤ語のオピウムにいきつく。ケシの果実の汁は 5000年前の古代メソポタミアで既に鎮痛剤として使用されていたらしい。中国にはインドから 唐の時代に入ってきて、日本へは14、15世紀頃に渡来したらしい。「和漢薬用植物」 (刈田&木村著) によると、「阿片は足利義満の時代、青森県津軽地方にインドより伝来せるものの如く、・・・・・・明治維新 以後漸次興盛に赴けし」と記述されている。弘前藩に津軽一粒金丹という秘薬があり万能薬として 知られていたという。これが阿片であるのは間違いのないところだが津軽に導入された経過は 明白ではない。モルヒネの誘導体ヘロインはジアセチル・モルヒネのことで、これは19世紀後半に 登場している。歴史的には英国帝国主義の侵略戦争の典型である阿片戦争(1840〜1842)が なんといっても印象深い。英語では the Opium War といいイギリスと清国との戦争である。清がイギリスからの 阿片密輸を禁じたために起こった。イギリスの勝利となり、英国は香港を150年間借款した。 現在、1997年の香港の中国返還に向けて双方の話合いが行われているのは周知のことであろう。 阿片が日本に大量に入ってこなくて幸運だった。
ケシの類で有名なのはヒナゲシ(雛罌粟)であろう。以前に信州大学経済学部の非常勤講師として 有名になったアグネス・チャンのヒット曲にある「ヒナゲシのはな」のあのヒナゲシである。 ヒナゲシは別名がグビジンソウである。別名では夏目漱石の著書の「虞美人草」という小説が有名である。虞美人草の由来は、「昔中国の楚の勇将項羽の妾に虞という美人がいた。漢楚の戦争に 破れた項羽の後を追って自刃した虞は、心ある人により手厚く葬られたがまもなくその墓に 可憐な真っ赤な花が咲き出した。人々はその花を虞の魂の花と考え虞美人草と名づけた」という 伝説による。ヒナゲシはモルヒネを含まないので栽培は禁止となっていない。ヒナゲシの仲間は 多いが、虞美人草は花弁の基部に黒い斑があるので他の種類と区別ができる。
さて、コマクサは高山植物の女王などと記載されて、久しくアルピニストだけが見ることが 出来る、高嶺の花ともいわれてきた。しかし山岳道路が発達した昨今、蔵王山や乗鞍岳の 自動車道路辺でもみられるようになっている。毎年7−8月の夏季に常念岳鞍部の常念小屋に 信州大学医学部の山岳診療所が開設されているが、その付近には丁度花期をむかえたコマクサが 群落をつくっていて見事である。5年前の7月末に年齢もわきまえずに家内と常念岳登山を 楽しんだ。その時は常念小屋を囲んで丁度見頃のコマクサの花の群落が風に揺らいでいた。
コマクサもモルヒネを含まないケシ科の植物であるが全草にプロトピンやセントリンという アルカロイドを含んでいる。大量に服用すれば縮瞳が起きる。昔から修験者により薬草と されていて「御百草」(おひゃくそう)の原料の一つとして、 木曽の御岳のものが有名であった。 この地方の伝説で、娘の病気を治す為に母親が御岳神社に祈願し、お告げによってコマクサの せんじた汁を飲ませて病気を治したというのがある。この母親の名前がお駒といいコマクサの名になったという話である。他に、娘の名前が「おこまさん」という話もある。名称については 花の形が馬の顔を連想させるからという説が最も一般的である。コマクサの黒い種は苦く、 健胃剤や下剤と考えられていたようである。しかし、霊草の故に乱獲され絶滅したところも 多いという。現在コマクサは特別保護植物に指定されていて一般の採取は禁止されている。 今では薬草として用いられることもない。
コマクサの最も恐ろしい敵は人間なのかも知れないが、コマクサを食べて成長する昆虫がいる。 ウスバキチョウの幼虫で葉や茎、花も食べてしまうのである。長野県にはいない。北海道の話である。 ウスバキチョウはあげはちょう科で開帳約50ミリとアゲハ蝶としてはやや小型である。この蝶は シベリア、アラスカや中国東北部などに分布しているという。日本では北海道の大雪山系の高地 にだけ7月頃みられるという。この蝶は天然記念物であり採取は禁じられている。北海道に 生存していて本州にいないのは津軽海峡(ブラキストン線)ができあがった後で北海道と 陸続きだった大陸から渡ってきた蝶と考えてよいだろう。
コマクサは前述のように信州大学の紋章となっているが、現在まで用いられているデザインは あまり秀れているとは言いがたい。大学改革が全国に広まっているこの機会に、信州大学も 新しい斬新なデザインを作ってみてはどうかと考える。私の所属する医学部薬理学教室では 16年程前に教室の紋章を作成した。コマクサの花の4個をデフォルメしたものである。 教室の便箋にもこのマークをいれている。これをメダルにしたものを毎年教室の忘年会に、 特に頑張った若い研究者に贈り、皆で健闘をたたえ、これを肴におおいに酔いしれるのである。 小さいながらアルプスの貴婦人といわれ、信州大学のシンボルであるコマクサは植物としても もっともっと知ってもらいたい花ではある。
最後になってしまったが、一昨年「教育研究者総覧」の初版が出版された。その中に 本学出身のグラフィック・デザイナーの柳沢京子さんによるコマクサと蝶の見事なデザインの カットがある。ここに紹介して筆を置くことにする。 |